「ら抜き言葉殺人事件」の読書感想文。私の場合は「そうゆう殺人事件」になりそう

「ら抜き言葉殺人事件」の読書感想文。私の場合は「そうゆう殺人事件」になりそう

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ピアノと日本語を教えている笹森恭子が、自宅のベランダで首吊り自殺をした。部屋には、ある作家に誤りを指摘した手紙に対する返信が残されていた。警視庁捜査一課の吉敷竹史は、現場に不審を抱き、殺人説を唱える。そんな時、またもや自殺者が。しかも、恭子に来ていたのと同じ作家からの葉書が……

 

 

「見れるでしょう」と書かれて提出されたものに、Googleドキュメントの提案機能を使い「『見られるでしょう』に変更(ら抜き言葉のため)」とする仕事をしているので、この小説で殺された人ほどではないものの、ら抜き言葉に対して「なぜ『ら』を抜いたんじゃ」と思うことは多々ある。

 

この本では「ら抜き言葉」が大きく関係していたことから「ら抜き言葉殺人事件」となったが、もし私が殺されたのなら「そうゆう殺人事件」になるだろう。

私が読書以外で文章を読むのは主にTwitterなのだけれど、「そうゆう」「こうゆう」「ゆった」があまりにも多すぎる。あまりにも多すぎて、ピンクの服を着た米倉涼子になる5秒前だ。

 

冷静に考えると、「そうゆう」と書いてはいけない決まりはない。完全に個人の自由である。だけど、特に著名人やインフルエンサーとされる、若者や一般人に影響を与える存在が「そうゆう」と書いていると、「そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」と思ってしまう。

「そうゆう」と言ってはいけない決まりはないし、思い返せば学生の頃に「『そうゆう』ではなく『そういう』と書きましょう」と習った記憶がない。まあ私の通っていた高校の偏差値は30台だったらしいから、他の学校では習っているかもしれないけれど。

とにかく、私は習った記憶がないのに「そういう」と書きたい人間であり、「そうゆう」を撲滅したい人間である。だからもし私が死んだら「そうゆう殺人事件」になる。なるかな。「そうゆう」って書いている人に逐一DMをしまくる活動を始めたらなるかもしれないね。

 

なぜダメなのかを考えてみたが、前述した通り偏差値30台の高校を出ただけのフリーランスなので、しっくりくる答えが出せなかった。なんか気持ち悪いとか、違和感があるとか、書き言葉として正しくないから、のように、ふんわりとしたことしか思い浮かばない。

もし、ひとんちの子どもから「そうゆうって何でダメなの、アニメでも漫画でもそうゆうじゃん!」などと言われても、納得させられる自信はない。私が「そうゆう殺人事件」の加害者になる可能性が出てくる。

なぜ「そうゆう」はダメなのか。書き言葉として正しくないからダメ、なんか気持ち悪い、変な感じ、以外の答えをお持ちの方はぜひ教えてほしい。もしくは、答えが書かれている本があれば教えてほしい。

日本語って、言葉が一つ違うだけ、言葉の順番が入れ替わるだけで文章の伝わり方は変わるし、場合によって「この日本語はどういう意味だろう」と読み手を悩ませてしまうから、日本語には気を遣いましょうね、殺されますよ。という読書感想文でした。おしまい。

 

▼感想やおすすめしたい本などあればお気軽に…

 

 

以下、登場人物に関するちょっとしたネタバレ感想

 

1994年に発売されたものだから、たとえば、看護師を看護婦と書いてあるとか、そんな捜査いいの!?のような、現代の小説とはまた少し違う雰囲気も楽しめた。

主人公の人間性にも惹かれる。バリバリの警察官ではないけれど、独自の価値観を大切にして動けるタイプ。その結果、周りからちょっと白い目で見られはするものの、それはそうだよね、と受け入れ納得できる人間。

私は人間関係が狭すぎるし、自分が奇行をしても受け入れてくれるような人としかリアルでの付き合いはしていないから、もし白い目で見られ始めたらクスンクスンと泣いてしまうだろう。31歳にもなって。

だから、「人は人だし、人から見たら自分はこうだから白い目で見るよね」と受け入れられる彼に憧れるし、「そうゆう」って書く人間は駆逐したい。