私の贅沢は「最低ランクでいいのに『ちょっと奮発しちゃお♪』の気持ちでお金を出した」ところから!
こんな書き出し方をすると、「こんにちは、真緒です!」と挨拶しないといけない気持ちになる。そういう流れがある気がする。知らんけど。
最近、「贅沢」について考え込んでいる。
というのも、9月に入ったが私はまだ実家にいて、お盆の名残をそのままに寄生を楽しんでいる。
寄生虫の楽しみは母とのドライブだ。道の駅を巡ったり、美味しいものを食べに行ったり。仲はいい方なので、ドライブ中も適当なことをペラペラほげほげと話している。
母は、遊んだ帰り道に「こんな贅沢ばかりして……」と言うことがある。
私の中で「贅沢」は「自分の意志でする分には良い」が「他人から指摘されると良くないもの」として認識している。だから、母から「こんな贅沢」と言われると、良くないことをした気持ちになり、少しだけしょげてしまうのだ。
つい先日も、楽しく遊んだ帰り道に「こんな贅沢」と言われ、しょげ、少し反論したくなったので「お酒を飲まない外食費なら贅沢に入らなくない?」と聞いた。すると、「二人で2、3000円くらいかかるとして、スーパーへ行ったら何日か分の食費になると思ったら贅沢じゃない?」と答えられた。
それはそう、としか言えなかった。
単純に「『こんな贅沢』と言われるとしょげるから言わないで」と言えばよかったのに「これは贅沢じゃない!」を押し付けようとした。
結果、それはそう、としか言えなくなってしまった。
おそらくだが、母の贅沢は「お金を使うこと」なのだと思う。買い物をしたあとにも「贅沢した!」と言うので、たぶん正解に近いはずである。
対して、私の贅沢は「最低ランクでいいのに奮発すること」。少しいい生活必需品を買うときには「贅沢!」と思わないので「お金をかけなくてもいいところにかける」が贅沢なのだろう。
例えば、
LCCでも実家に帰れるのに、ANAやJALを使うこと
BOOKOFFでも買えるのに、電子書籍を買うこと
オーストラリア産の肉でいいのに、国産の肉を買うこと
この3つは特に贅沢だと感じる。
念の為書くが、電子書籍や国産肉を選ぶ人に対して「贅沢!」とは思わない。ただ「ブックオフで本を買うなんて贅沢したね!」と言われたら、そのときは反論するだろう。
でも、もしそうやって言ってくる人がいたとしたら、その人にとっては「本は図書館でも読めるのに、買うこと自体が贅沢だから」の可能性も捨てきれない。対話を試みたい所存である。
話は逸れるが、最近のXでは「人それぞれ」が存在しない気がする。「なぜこの人はこんなことを言っているのか」を考えずに、引用RTやリプライを送っている人が多い気もしている。
最近見たツイートで記憶に残っているのは「25歳過ぎてワンナイト〜〜」のような内容に対し「25でその思考はヤバい」と返信している人がいたことだ。
25歳を過ぎてワンナイトしてようがしてなかろうが、その生活を望んでいようが、自慢していようが、考え方もそれを書くかどうかも「人それぞれ」でしかないし、赤の他人が直接否定する権利も義務はない。
ところがどっこい、最近のTwitterでは「個人的に好ましくはないけど人それぞれだよね」的なことでも、否定するのが義務かのように叩いているのを見かける。
本当に嫌な世の中(Twitter)になってしまった。穏やかな南の島に移住したい。マレーシアみたいな………クアンタンがいい。なんでもない海辺に家を建てよう……。
うまいことまとめようとするけど、どんな価値観でも人それぞれ!否定しない!自分の意見を押し付けない!おわり!!!
▼こっちでブログ更新のお知らせをしているので…よければ…